lunes, 7 de enero de 2008

パリ, 各地域 括弧内の数字は区を示す。

右岸
シャンゼリゼ通り (8)
凱旋門からテュイルリーまで続く、パリを代表する目抜き通り。
シテ島 (1, 4)
パリ発祥の地であり、
ノートルダム大聖堂など歴史的建造物も多い。
パッシー (16)
高級住宅地。
オペラ界隈 (2)
デパートや高級ブティック、銀行などが立ち並び、日本料理店や日本の生活雑貨店が並ぶ
日本人街でもある。
マレ (3, 4)
貴族の館が集中して残る地域であり、現在は裕福なユダヤ系住民が多く住む。美術館やギャラリーも多い。お洒落な
ゲイの集まる地域でもある。
バスティーユ (4, 11, 12の各境)
フランス革命の発端となった場所として有名だが、今では若者が集まる歓楽街となっている。オペラ・バスティーユもある。
オベルカンプ (11)
同じく歓楽街だが、比較的新しい。テクノ音楽やゲームなど新しい文化を紹介する場として認識され、アニメショップなども複数見られる。
ピガール、ブランシュ (18)
モンマルトルのふもとに位置する。高級キャバレー「ムーラン・ルージュ」があるが、その他は怪しげな
キャバレーやいかがわしいセックスショップが多く並ぶ性的歓楽街でもある。昔から猥雑な界隈であり、永井荷風の「ふらんす物語」にも描かれている。
モンマルトル (18)
パリを見下ろす高台。パリ市に編入されたのは1860年以後だが、現在ではパリを代表する名観光地となっている。2001年のフランス映画『
アメリ』の舞台にもなった。サクレ・クール寺院が一番の高台にそびえ、そこから西側へ行くにつれテルトル広場やムーラン・ド・ラ・ギャレットなど観光名所が多く並ぶ。寺院東側は観光地ではなくアフリカ系移民が多く暮らすシャトー・ルージュ地区。
ベルシー (12)
昔は
倉庫街だったが今は再開発が進み、大蔵省やベルシー公園、ワイン倉庫街を改造したレストラン街などが新しい観光地となっている。
ベルヴィル (11, 20)
元々はパリ郊外のコミューンだったが、
1860年にパリに編入された。アラブ系、アフリカ系、ユダヤ系(労働者系の)、中国系(華僑)など、主に労働者系の多くのが暮らす地域。安くて異国的なレストランなどが集中する。名前とは裏腹に雑多で庶民的な界隈であるが、近年ベルヴィル公園が整備され、再開発が進んでいる。エディット・ピアフの生地でもある。トルビヤック地区に次いで、1970年代以降パリ第2の中華街が形成されつつある。
バルベス (18)
ベルヴィルと同じくアラブ系やアフリカ系の移民が多く暮らす。有名な安物服屋やアフリカ系商店街があり、人口密度も多く、駅前は常に混雑している。

[編集] 左岸
モンパルナス (14)
庶民的な雰囲気を残す左岸の地域。
サンジェルマン・デ・プレ (5, 6)
歴史的地区であり、美術学校に近いことからギャラリーも多い。
サルトルら哲学者が集まった場所として有名な2軒のカフェがある。カルチエ・ラタンに隣接する。
カルチエ・ラタン (5, 6)
ソルボンヌ大学をはじめ大学が集中しており、昔から学生街として有名。カルチエは「地区」、ラタンとは「ラテン語」のことであり、「ラテン語を話す (= 教養のある) 学生が集まる地区」という意味が語源。羅典区。
エッフェル塔とシャン・ド・マルス公園 (7)
パリを代表する観光名所としてあまりに有名。セーヌ川の観光船のうち有名な2つの船の発着点ともなっており、観光客が集中する。
トルビヤック (13)
いわゆる中華街だが実際は
ベトナム系が多く、中華・ベトナム料理店が並ぶ。昔はゴブラン織りで栄えたが、今は高層ビルが林立する再開発地域である。川、運河

[編集] 川

セーヌ川
セーヌ川
パリ市内を横断する川であり、
パリのセーヌ河岸世界遺産に登録されている。パリではセーヌ川の北部を右岸 (Rive Droite) 、南部を左岸 (Rive Gauche) という。パリ市中心部にある川中島であるシテ島は、パリ市発祥の地である。シテ島の東にもうひとつサン・ルイ島という島がある。セーヌ川は重要な運路であり、パリ市内では観光船のほか運搬船も多く行き来する。パリ市東部郊外のごく近い場所でセーヌ川とマルヌ川が合流し、ベルシーからパリに入り、途中サン・ルイ島とシテ島を抜け、アンヴァリッドのあたりで南西に折れ曲がり、そのまま15区と16区を抜けていく。パリを抜けた後は蛇行を繰り返し、ノルマンディー地方を経て大西洋へと流れていく。パリ市内には多くの橋がかかっており、歴史やいわくのある橋も多い。詳細はセーヌ川の項を参照。
ビエーヴル川
13区のトルビヤック地区やゴブラン地区には、セーヌ川の支流であるビエーヴル川という自然の川がかつて流れていた。今は下水道として完全に地下化してしまい、現在の一般の地図上でその存在を確認することは出来ないが、古地図などで見ることが出来る。国立ゴブラン織り製作所は、この川の上に存在する。

[編集] 運河

サン・マルタン運河
サン・マルタン運河
パリ東部セーヌ右岸を南北に流れる
運河。セーヌ川に面したサン・マルタン運河の出入口はアルスナル港と言う。ここからバスティーユ広場を経て、運河は地下水道となる。10区に入ったあたりで、運河は地上に顔を出す。この辺りには水位を上下するための水門がいくつかある。10区の運河沿いにはかつて革製品などの町工場が多く並んでいたが、今はそれらの工場は衰退しており、徐々に再開発の動きが進んでおり、最近は、景観を生かしてレストランが並ぶ。10区と19区の境にある地下鉄2番、5番、7番のジョレス駅およびスタリングラッド駅付近にあるラ・ヴィレット運河まで出たところで、サン・マルタン運河の名称は終わる。今はサン・マルタン運河を走る運搬船はほとんどないが、観光船が走っている。
ウルク運河
サン・マルタン運河と一続きの運河だが、ラ・ヴィレット運河より以北はこの名称になる。パリ19区からパンタン市へ、さらに遠方のウルク川へと繋がっている。メトロ5番は、終点、ボビニー・パブロピカソ駅手前でこのウルク運河沿いの地上部を走る。ラ・ヴィレット公園の手前でサン・ドニ運河と分岐(合流)している。
サン・ドニ運河
ラ・ヴィレット公園の手前でサン・ドニ運河と分岐・合流している。パリ市内では19区のごく一部を流れる。パリ郊外のオーベルヴィリエ市、サン・ドニ市を経て、パリ北部で蛇行するセーヌ川下流と合流する。ウルク運河経由で水路をショートカットするためにつくられており、運搬船が頻繁に行き来している。
[編集] 広場、公園、森

[編集] 広場

コンコルド広場

バスティーユ広場

ヴァンドーム広場

シャルル・ド・ゴール広場
コンコルド広場 (1)
パリの中心部、テュイルリー公園とシャンゼリゼ通りに挟まれて位置する。歴史ある広場で、フランス革命の後にはルイ16世や
マリー・アントワネットの処刑が行われた。現在はツール・ド・フランスの終着点としても知られ、最終日には多くのファンが集まる。
ヴァンドーム広場 (1)
ナポレオン2世の記念柱が立っている。この広場および隣接するサントノレ通りには高級宝石店や高級ブティックが並ぶ。
バスティーユ広場 (4, 11, 12の各境)
フランス革命の発端となったバスティーユ要塞があった場所で、要塞は革命後に取り壊されて現在の広場となった。広場中央には革命の記念柱が立っている。広場に面してオペラ・バスティーユがある。サン・マルタン運河出入口のアルスナル港にも面している。
ヴォージュ広場 (4)
バスティーユ広場のすぐ近くだが奥まった場所にあり、赤い煉瓦と石造りの美しい建物に囲まれたほぼ正方形の広場である。その赤い建物の一角には
ヴィクトル・ユーゴーの住んだ家がある。フランス革命前は国王(ロワイヤル)広場と呼ばれていた。
サン・ミッシェル広場 (6)
カルチエ・ラタンの中心部に位置し、セーヌ川および対岸のシテ島、ノートルダム寺院に面している。本屋などが多くあるほか、広場裏手には安手のレストランが立ち並ぶ。
シャルル・ド・ゴール広場(エトワール広場) (8)
凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを含め放射状に道路が伸びる、パリの顔とも言うべき広場。元はエトワール広場と呼ばれたが、
第二次世界大戦シャルル・ド・ゴール将軍をたたえて現在の呼称となった。通常はエトワール広場の呼称でも通じる。1860年のパリ拡張以前はパリの西の玄関だった。
レピュブリック広場 (3, 10, 11)
訳すと共和国広場。庶民的な地区に位置するが、広場としてはきわめて大きいそれの一つ。マニフェスタシオン(デモ)がある際にはほとんどここが起点となる。
ナシオン広場 (11,12)
エトワール広場と同じく道が放射状に伸びる、1860年以前のパリの東の玄関。かつてカルーゼル凱旋門が置かれていたが現在同門はルーヴル正面に移され、現在ナシオン広場には2つの柱が立っている。
ロベスピエールの恐怖政治時代にはここで多数の反体制者がギロチンで処刑された。
テルトル広場 (18)
モンマルトルがパリに編入される以前はこの広場が村の中心だった。現在は絵描きが多く並ぶ一大観光名所となっている。
イタリー広場 (13)
パリの南の玄関口。

[編集] 公園、庭園

公園はパーク (Parc)、庭園はジャルダン (Jardin) と呼ばれ区別されている。
テュイルリー庭園 (1)
パリの中心部、ルーヴル宮の正面に位置する。かつて
テュイルリー宮殿があった。
リュクサンブール庭園 (6)
リュクサンブール宮殿(現在のフランス上院議会)の正面に位置する庭園。カルチエ・ラタンに隣接し、学生たちの憩いの場でもある。
シャン・ド・マルス (7)
エッフェル塔に登ると先ず目に入るのが眼下に広がるこの公園の全景である。かつては軍事演習場だったところ、1889年のパリ万博の会場にもなった。
モンソー公園 (8)
1860年のオスマン公によるパリ大改造で公園に整備された。
ベルヴィル公園 (20)
庶民的なベルヴィル地区に位置する。高台になっており、パリを一望できるとても眺めの良い公園。
ビュット・ショーモン公園 (19)
同じく1860年のパリ大改造で整備され、昔の石切場跡を公園にした。
植物園 (5)
その名の通り
植物園で、動物園も併設する(ただしヴァンセンヌの森の動物園よりは小さい)。敷地内には自然史博物館がある。
モンスーリ公園 (14)
これも1860年のパリ大改造で整備された。14区の外れにあり、
国際大学都市に面している。
ジョルジュ・ブラッサンス公園 (15)
馬市場、家畜市場の跡を整備した公園で、銀色の巻貝のような劇場を併設する。馬市場の跡の19世紀の鉄骨屋根のテントの下では、定期的に古本市が開かれる。
ラ・ヴィレット公園 (19)
庶民的な地区に属するが、かつての食肉処理場跡および旧鉄道用地の広大な敷地を再開発して公園とした。広大な敷地内にはサン・ドニ運河(サン・マルタン運河に繋がる)が流れる。代表的な建物として、食肉処理場時代の19世紀の鉄骨建築ホールをそのまま流用したグランド・アール(見本市会場)、科学産業都市(博物館)および音楽都市(
クラシック用コンサートホール)、ZENITH(ロックポップス用コンサートホール)、パリ音楽院現校舎などがある。
アンドレ・シトロエン公園 (15)
自動車会社シトロエンの工場跡および鉄道敷地跡を整備して公園にした。大きな芝生の広場がある公園で、現代的なデザインである。
ベルシー公園 (12)
フランソワ・ミッテラン元大統領により整備された。新大蔵省の建物に面している。付属のベルシー体育館ではスポーツのほかコンサートなども行われている。

[編集] 森

ブローニュの森
パリには東西2つの大きな森があり、パリ市民の憩いの地となっている。現在はこの森もパリ市の敷地に含まれる。
ブローニュの森 (16)
パリの西側に位置する。16区の高級住宅街パッシーやオートゥイユ、近郊の高級住宅市街に面し、高級社交場でもあるオートゥイユ競馬場なども併設する、高級的な雰囲気の漂う森である。ただし夜暗くなってからは
ゲイの人達が集うことでも知られる。
ヴァンセンヌの森 (12)
パリの東側に位置する。こちらは庶民的な森として知られ、アフリカ・
オセアニア博物館のほか、動物園農場(パリ唯一の農場)、パーク・フローラル(花公園)などを併設する。中世の砦だったヴァンセンヌ城もある。

[編集] 四大墓地

パンテオン
パリは東西南北に4つの主要な墓地があり、多くの著名人が眠っている。
ペール・ラシェーズ墓地 (20): 東
パッシー墓地 (16): 西
モンパルナス墓地 (14): 南
モンマルトル墓地 (18): 北
この他、パリ中心部に位置する
パンテオンにもルソーヴォルテールヴィクトル・ユーゴーデカルトといった偉人たちが埋葬されている。

[編集] 郊外

パリの郊外にはヴェルサイユなど有名な観光地がいくつかあり、そのほとんどはパリから日帰りで往復できる。
16-17区に繋がるセーヌ川下流の西部方面には閑静な高級住宅地が広がっている。逆に18~20区から繋がる北東方面は低所得層の集まる地価の安い郊外となっており、近年は犯罪増加などの問題を抱えている。フランスで単に「郊外(
バンリュー)」という場合、こうした地域を婉曲的に指すことが多い。その他の方面の郊外は一般的なベッドタウンとなっている。
パリより
電車で各30分ほど離れた郊外にはいくつかの衛星都市があり、近代建築によって町の機能が整えられている。中でもラ・デファンスには「新凱旋門グランダルシュ」をはじめ高層ビル群が集中しており、多数の企業オフィスを抱える新都心となっている。
詳細は
イル・ド・フランス地域圏を参照

[編集] 観光名所

パリ


パリ(Paris、巴里)は、フランス首都であり、イル=ド=フランス地域圏首府ロンドンニューヨーク東京と並びトップ水準の世界都市である。


パリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。市役所はセーヌ川右岸の北緯48度52分00秒、東経2度19分59秒に位置する。行政上では、一コミューン単独でを構成する特別市であり、中心部から順に20個の行政区に分割される。市域は西部のブローニュの森と東部のヴァンセンヌの森を併せて105.40平方キロメートルと、世界の大都市の中でも狭い部類に入る。更に旧城壁部分(純粋な市街地)の面積となると86.99平方キロメートルしかない。そのため市街地エリアに限定した人口密度は2万5000人近くに達する。ヨーロッパ随一の過密都市である。市域人口は1950年代の約290万人をピークに長くドーナツ化現象によって減少し続けたが、ここ数年は減少が下げ止まり微増傾向に転じている。特に、再開発が進む南部や移民流入の著しい東部での人口増加が目立っている。
フランスの政治・経済・文化の中心である上、世界四大都市にも挙げられるほどの世界都市であり、歴史的な建造物や美術館を数多く抱えるため「芸術の都」、「花の都」などと呼ばれる、世界屈指の観光都市としての顔も持つ。歴史的に戦火を巧みに避けてきたため、パリは街全体が数多くの由緒ある歴史的建造物を有する一つのテーマパークのような存在になった。
古くから宗教・文化面などにおいて欧州各地、そして世界中から人を集める多民族集住地区であった。1960年代以降旧植民地であったアフリカ中部・北部やインドシナ半島、更に近年は中近東や東欧、中国などからの移民も増えてきた。
パリっ子はパリジャン (Parisien) (男性)・パリジェンヌ (Parisienne) (女性) と呼ばれる。



[編集]


語源はパリシー (Parisii) と呼ばれるガリア人部族。Parisiiは「田舎者」、「乱暴者」を意味する。ローマ人が入ってくる以前のこの土地の先住民である。欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめているギリシャ語ではΠαρίσι(パリーズィ)、イタリア語で Parigi(パリージ)と発音される。フィンランド語では Pariisi(パリーシ)と発音されるのはここからだという説がある。Lutetia (Parisiorum) 「(パリシーたちの)ルテティア」とも呼ばれていた。

[編集] 古代

セーヌ川の中洲シテ島は古くからセーヌ川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシー族の集落ルテチアがあった。紀元前1世紀ガリア戦争の結果ルテチアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテチアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場や公衆浴場などが築かれた。しかしローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころからルテチアに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。


フランス王国首都

5世紀末にフランク族の王クロヴィス1世はパリを征服し、508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ(カール大帝)以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。885年から886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。このときフランク王シャルル3世(カール3世)は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代ってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。

1223年のパリ
西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。王権の強化にしたがって首都も発達し、フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁が築かれた。このころのパリは初期スコラ学の中心の一つでもあり、11世紀頃からパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、のちのパリ大学につながっていった。パリ大学はヨーロッパ最古の大学のひとつであり、特に神学の研究で著名であった。右岸に中央市場「レ・アル (Les Halles)」が作られたもこのころである。こうして左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。12世紀にはパリ水運商人組合が結成された。後にその商人頭は事実上の市長として市政を司るようになり、エティエンヌ・マルセルのように王に匹敵する権力を持つものも現れた。市の規模が大きくなるにつれ、城壁は何度か壊され市域が拡大していった。

「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」に描かれた15世紀のルーヴル宮殿
百年戦争後半にはパリはオルレアン派とブルゴーニュ派の対立で混乱に陥った後、イングランドと同盟したブルゴーニュ公の支配下に入った。しかし1436年にはフランス軍に奪還され、翌1437年シャルル7世は改めてパリをフランスの首都と定めた。しかしこの後もフランス王はパリには住まず、ロワール渓谷の城を好むようになった。ユグノー戦争の時代にはパリはカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺が起こった。
アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。これ以降パリ市内ではテュイルリー宮殿リュクサンブール宮殿廃兵院などの大規模建築が相次いで作られた。しかしルイ14世はパリ郊外のヴェルサイユに造営した離宮に政治の本拠を移し、ルイ16世の治世の末期までヴェルサイユが政治の中心となった。
1789年7月14日、パリ市内で発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。ヴェルサイユ行進でルイ16世が強制的にパリのテュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。

19世紀
19世紀のパリは政治的には安定しなかったものの、産業革命の到来により経済的、文化的には繁栄した。
1837年にはパリ(現在のサン・ラザール駅)-サン=ジェルマン=アン=レー間に鉄道が開通し、以後各方面への鉄道路線が次々と開業した。
第二帝政下ではセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによってパリ改造が行なわれた。中世以来の狭い路地を壊して道路網を一新したほか、上下水道の設置など都心部の再開発インフラストラクチャーの整備が行なわれた。これによりパリは近代都市として生まれ変わった。現在のパリ市中心部の姿はほぼこの時の状態をとどめている。

パリ・コミューンのバリケード
普仏戦争ナポレオン3世の主力軍が敗北すると、パリは1870年9月からプロイセン軍に包囲された。翌1891年1月に政府は降伏したが、パリの労働者らはこれを認めず蜂起した。3月には史上初の労働者階級の政権パリ・コミューンが発足したが、ヴェルサイユ政府軍の攻撃によりわずか2か月で崩壊した。コミューンの最後はパリ市内での市街戦となり、大きな被害を出した。
19世紀末から20世紀初めにかけて、パリでは数会の万国博覧会が開かれた。1889年の万博ではエッフェル塔が建てられ、1900年にはメトロが開業した。この時代をベル・エポック(よき時代)と呼ぶ。

20世紀
第一次世界大戦の緒戦ではドイツ軍がパリの目前にまで迫り、政府が一時ボルドーに避難するほどであったが、マルヌ会戦の勝利により辛くも陥落を免れた。大戦後半にはパリ砲による砲撃を受けた。
戦間期にはパリは芸術の都としての地位を回復し、アメリカやヨーロッパなどから多くのボヘミアンたちを惹き付けた。

パリに入城したドイツ軍
しかし第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツのフランス侵攻開始から1か月で政府はパリを放棄せざるを得なくなり、1940年6月14日にはドイツ軍がパリをほぼ無血で占領した。6月23日にはアドルフ・ヒトラーがパリに入った。占領下のパリではレジスタンス運動に身を投じる者がいる一方で、積極的にドイツ軍に協力する市民もいた。後者は後に対独協力者として糾弾されることになる。
ノルマンディー上陸作戦から2か月半後の1944年8月25日、パリは連合国軍と自由フランス軍によって解放された。このときドイツ軍のパリ駐留部隊を指揮していたディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍はヒトラーからパリを破壊するよう命令されていたが、これを拒んで部隊を無抵抗で退却させ、自身は降伏した。この英断によりフォン・コルティッツは戦後、フランスから名誉パリ市民号を贈られている。
戦後のパリでは主に郊外(バンリュー)で人口が急増した。環状高速道路ペリフェリックをはじめとする高速道路網や、郊外と都心を直結する鉄道RERなどが整備され、ラ・デファンス地区がオフィス街として開発された。一方で豊かな都心と貧しい郊外という構図が生まれ、失業や治安の悪化が社会問題となった。2005年にはパリ郊外暴動事件が発生した。

[編集] 行政区画の変遷

フランス革命後の地方自治制度では、パリ市はセーヌ県(当初の名称はパリ県)に属する一コミューンであり、同県の県庁所在地であった。市域は現在より狭く、ほぼメトロ2号線6号線の内側に相当する。
1860年に市域が拡張されてほぼ現在の範囲となり、同時に20の行政区が設けられた。1968年にはセーヌ県が廃止され、パリ市は単独で県と同格の自治体とされた。1976年イル=ド=フランス地域圏が発足すると、パリはその首府となった。

行政区

パリは、一市単独でを構成するコミューン、いわゆる特別市である。市内は20の行政区に区分されている。区は、パリ市街地の1区から、右回りの渦巻状に番号が付けられている。1 - 4、8 - 12、16 - 20区は右岸に、5 - 7、13 - 15区は左岸に位置する。

国立慶州博物館 (慶州)

皇南パンから、10分弱で「国立慶州博物館」に到着。さっきから近いところをうろうろと移動してるんだな。博物館の入場料は400W。どこも安いよね。日本だったら確実0が1つ多いね。ここも広いよー。新羅千年の歴史があつまってるとあって、考古館、美術館、雁鴨池館、特別展示館からなり、展示物も約3,000点が常時見られるようになっているとのこと。屋外展示も多数あって、とても短時間で見て回れる量じゃないね。

入口を入ってすぐ目に付くのが、聖徳大王神鐘(エミレの鐘)。新羅第35代景徳王が、亡くなった父、聖徳王の冥福を祈るために作り始めたが、完成に至らず、その息子である恵恭王に引き継がれ、やっと完成した大鐘。音色と形状が優れいている銅の鐘として、国宝に指定されています。
考古館では、金の冠や装飾品、青銅でできた装飾品に武具など、高度な文明があったことが感じられる展示で、けっこう圧倒される。美術館では仏教文化を見ることができます。慶州の全体図で、さっきまで見てまわってた大陸苑や瞻星台、そしてこれから向かう仏国寺などの位置がわかって楽しかったな。サインには日本語表記もされているので、助かったー。

展示物見すぎて、ちょっとぐったりきたね。屋外展示を少し眺めてから、トイレに行ったら、ここは入口のところにトイレットペーパーがあって、それぞれ自分が使う分だけもって、個室に入るのだ。トイレットペーパーあるだけいいけど、たりなかったらどうしよーって思うよね。とにかく、韓国ではポケットティッシュは必須だね。水洗の水圧も弱いので、紙は流さずに、だいたい個室内に設置されているゴミ箱に入れます。これは初めてだと戸惑うよね。つい、くせで流してしまったりするんだよね。気をつけねば

石窟庵 (慶州)

仏国寺からカーブだらけの道を山の方、上の方へと進む。99曲がりとも言われていて、ほんとカーブだらけだよ。20分くらいで、石窟庵(ソッグラム)に到着。ここも世界文化遺産だ。かなり上まで来たみたいだね。駐車場からすぐのところが紅葉がすごくきれいだったな。もう下の方では紅葉が終わりかけだったけど、こっちはほんときれい。真っ赤だよ。きれいな紅葉の下で、チマチョゴリのおばさんが写真撮影してました。ステキだな。

入場料3,000Wを払い、吐含山石窟庵という門をくぐり10分ほど歩くと、やっと寺院が見えてきました。しかし、ここを歩いていく途中にすれ違うカップルはほとんと三脚付きカメラだな。ペアルックも多数目撃。韓国のカップルってほんとラブラブだなー。

石段をのぼり上まで行くと、本尊の釈迦如来像のお姿が。写真撮影禁止、しかもガラス越しの拝見だったけど、立派だったなー。花崗岩を彫って作れらてるんだって。人間ってこんなもの作っちゃうんだから、ほんとすごいよね。こんな上まで上がってきたかいがあったなーって思うよ。感心しちゃいました。

来た道を引き返すと、もうすっかり日が暮れかけているところ。夕日がきれいでした。これで、今日の慶州ツアーもおわりです。まだ5時過ぎだけど、おなかすいたー。これからばんごはん食べに行くよ。

花郎 (慶州)

ばんごはんは、サムゲタンをリクエスト!何回もプサンに行っている社長がおいしいよーというので、ドライバーの鄭さんに地元でおいしいお店に連れて行ってもらいました。仏国寺から普門湖に行く途中にある、慶州民族工芸村の向かい側の少し手前にある「花郎」というお店は。離れがたくさんあるようなところで、その中の1部屋に通されました。サムゲタンは1羽が30,000Wで、5人で食べるなら大きめのがいいよとのことで、45,000Wのサムゲタンにしました。1人前9,000Wだね。

ガイドの陸さんやドライバーの鄭さんと話をしながら待ちます。鄭さんは若いなーと思っていたら、1974年生まれと、ぴのこと同い年でした。南の方に人は素朴ではずかしがりやさんが多いみたい。韓国ドラマのストレートな愛情表現は、韓国でも北の方、ソウルなどがそうですよって。インターネットで日記を書いてる話をしたら、けっこう興味があるみたいだったな。今日1日はほんと快適なドライブだったよ。プサンはタクシーとかでも運転があらくて、交通マナーとかひどいなーと思ったけど、鄭さんの運転は心地よくて、あの石窟岩へのカーブでも全然酔わなかったもんね。名刺もしっかりもらったよ。

お店に入ってオーダーしてから、1時間ほどたったころに、やっと料理が登場。でも、まずは初めてみる食べ物が。なんだろーと思ったら、トットリムッといって、ドングリの粉で作ってある食べ物。こんにゃくみたいな感じかな。あまり味がなくて、野菜などと一緒に食べるんだけど、けっこうはまるかも。

そして、さらに30分たったころ、やっときましたサムゲタン。1時間半もまったよー。鶏肉がやわらかくて、めちゃめちゃおいしい!高麗人参やナツメなどいろいろな薬草のスープでじっくりと煮込んであるんだ。一般的なサムゲタンは鶏の中にもち米がつまってるみたいなんだけど、ここのはこのサムゲタンで使ったスープでもち米をお粥にして出してくれるのだ。このお粥がまたばりうまでした。サムゲタンすごいよ。また食べたい!

だいたい2時間ぐらいかけてのゆっくりとした食事でした。外に出るともう真っ暗だ。

最後に、普門湖のほとりにある現代ホテルまで送ってもらいました。鄭さんありがとうございました。慶州のドライブはたのしかったなー。慶州は実は、町中に桜並木があるんだって。この普門湖のまわりもそうで、桜の季節にはほんときれいとのこと。ほんと、素敵な古都でした。

現代ホテル (慶州)

今日の宿泊先、普門湖(ポムンコ)のほとりにある「ホテル現代(ヒョンデ)慶州」に着きました。この普門湖の周りには、一流ホテルがたくさんあるんだけど、その中でも立地がいいのが、ここなんじゃないかな。現代といえば、韓国の代表的大企業だよね。夜なので、外から見てもよくわかんなかったけど、なんかでかそう。フロントもロビーも立派だなー。チェックインをして、ぴのこたち3人はオンドル部屋へ。陸さんはガイドさんたちが泊まる部屋があるということで、また明日。

オンドル部屋もさすがに広いね。バスルームをあけると、正面に広い洗面所、右側にバスタブ、左側にシャワールームとトイレ。明らかにゴージャスです。さすが、特1級ホテルだね。

部屋を出て、館内体験だ。大きなラウンジに、レストランもたくさんあるね。ボーリング場、プール、ゲームセンター、サウナ、お土産やさんなど、アミューズメントもたっぷりで、ほんと巨大ホテルやん。ラウンジで、優雅にケーキセット食べてみました。ケーキ、全然おいしくないよー。パセリのってるし。ちょうど生演奏があってたけど、いつの時代だろーって感じで不思議な夜でした

高速バスターミナル

9時過ぎに、高速バスターミナルへ。まずは切符を買います。プサンまでは4,000W。約1時間半でつくとのこと。はやーい。行きは列車で2時間だったのに、高速バスって早いんだね。9時半出発でまだ時間があるので、売店とかうろうろしてみました。おかし買っちゃおう。ガムはやっぱりロッテだね。おっとっともあるよ。なんか絵がかわいいぞ。それぞれ500Wでした。


時間になったので、バスにのりこみます。座席はけっこうゆったりでうれしい。中もキレイだね。そろそろ出発なのになかなかでないなーと思ってたら、マラソンがあってるので、出発できないって。そういえば外がにぎやかだったね。いつ出るかわかんないってアバウトだな。まあいいやと待ってたら、10分ほどで出発しました。バスターミナルを出てわりとすぐに川の方に出たんだけど、ここでもマラソンのせいで足止めを。通り過ぎるまで待たないといけないみたいなんだけど、バスの運転手さんがマラソンの警備をしているおじさんにガンガン文句入ってるよ。こわいよー。なんだか運転もあらいしなー。その後、やっと動き出したら、飛ばす飛ばす。このペースで走って1時間半でつくんだね、きっと。途中寝てて、起きたらもうプサンみたい。バスの運転はあいからずあらいなー。ぼちぼち降り始めてる人もいて、ガイドさんが降りましょうって言ったので、どこかよくわからないけど、降りました。そこからタクシーで中央洞まで行って、「多島海」というお店に荷物を預けて、日本に帰る前にここでごはんを食べることに。身軽になったので、今度は昼間の南浦洞に遊びに行きます。ほんとはプサンに戻ってきたら陸さんの仕事は終了だったんだけど、夕方まで付き合いますよーってことで、一緒にまわってくれることに。

慶州の朝。初めてのバス (3日目)

富剛食堂  (慶州)現代ホテルのモーニングは食べずに、タクシーで慶州のバスターミナルに向かいました。朝ごはんはバスターミナルの周りで食べようと、陸さんが探してくれたのが、富剛食堂(プガンシッタン)でした。ここは座敷だったよ。テーブルにつくと、日本人用のメニューをもってきてくれました。これってプサンナビの出力だ。プサンナビにのってるお店だと思うと、ちょっと安心。ファンテヘジャンクッという干しダラのスープを、3つオーダー。陸さんは朝ごはんついてたんだって。なので、3人で15,000W。1人5,000Wだね。まずはおかずがずらーっと並べられるよ。韓国のごはんはこのおかずいっぱいがうれしいよね。その後、アツアツのファンテヘジャンクッに赤米のごはんが。ここ、ごはんもスープもおかずもどれもおいしかったです。お店の人も感じが良くて、あとでどんちゃんがたくさん写真とってたね。


韓国ってお皿を持ちあげない文化なんだよね。日本はお茶わんを持って食べるけど、韓国は逆。持ったらダメなんだって。ついつい持ちあげそうになるんだけど、ごはんとかは熱くてもてないけどね.

真抓实干 加快发展 全面推进航海保障工作  航标处2007年行政工作报告(摘要)

  补充和完善各项制度,理顺部门职责和管理流程,加强业务部门之间、机关科室和养护中心等基层部门的协调沟通,充分发挥整体合力和联动效应。探索建立航标养护企业化管理,建立航标养护质量控制体系,加强养护成本核算,降低养护成本,提高航标养护效率和养护质量。  继续抓好航标免维护维护改造,全面完成浮标三年起吊改造。积极推进遥测遥控系统建设,上半年全面完成辖区航标2007年指导思想以邓小平理论和“三个代表”重要为指导,以科学发展观统领全局,落实党的十六届六中全会精神,强化基础设施建设,强化全员教育培训,强化管理资源整合,强化内部规范运作,强化航标管理模式改革,落实“三个服务”,自觉融入辖区港口建设和地方经济发展,打基础、促发展,真抓实干,全面推进航海保障工作。  “五个强化”  强化基础设施建设泉州航标站迁建工程要抓紧相关手续的办理,争取年初尽早开工,年内完成工程建设。东山航标站建设要根据上级的计划,抓紧进行场地平整和方案设计,力争年内完成主体工程建设。地方标的大量移交所带来的管理问题,要求我们积极推进航标站点的建设。在报上级批准之后,要积极开展湄洲湾航标站、漳州航标站建设的前期工作。东渡航标基地的搬迁,要积极与地方政府有关部门沟通,落实用地,确定方案,做好前期。要积极挖掘设备潜力,制订海标101船综合改造方案。要积极与有关部门沟通,努力争取为湄洲湾配备一条400吨的航标船,保证辖区应急反应需要。
  根据交通部海事局和上海海事局的统一部署,认真落实福建沿海地方航标接收计划,做好接标后的恢复性发光和改造工作。认真完成狮屿灯桩、东门屿灯桩、铁钉屿灯桩改造和九折礁灯桩、斗尾灯桩、赤顶灯桩维修。继续抓好航标增量建设和灯桩四年免维护改造工作,重点完成湄洲湾和东山港航标建设。开展镇海角灯塔灯器自动化改造和古雷头灯塔AIS电源自动化改造。

强化管理资源整合推进航标质量管理体系实施运行,在前期编制完成航标质量管理体系文件的基础上,深化研讨、修订完善,全面推进实施工作,组织辖区专业管理人员的应用培训,开展管理体系试运行工作,做到科学组织,扎实推进。发挥技术研发中心优势,进行“AIS基站服务器及其共享发布平台”系统研发,实现AIS数据与航标遥测遥控系统的WEBGIS平台整合;进一步完善遥测遥控系统,进行海上各类航标设备的监控研究,完成灯桩RTU、雷达应答器RTU、大电流灯器RTU研发和应用;充分利用我处网络通讯资源,开发我处自有域名邮件服务系统,实现全处职工人手一个自有域名电子信箱;深化课题研究,完成“灯塔资源保护和综合开发利用”及“厦门湾助航实时信息发布系统”结题。  努力服务地方水运经济建设,主动介入和支持辖区港口建设。在厦门公铁大桥等重大港口建设项目上,要主动介入并积极配合做好相关工作。规范专用航标设置管理,做到依法行政,在厦门航标网公布专业标志设置审核程序,强化专业标志设置后的效能验收。加强与港航单位的沟通联系,通过各种渠道,广泛征集关于推进航标管理的意见建议。加大航标管理执法检查力度,加强与当地海事部门的沟通联系,积极完善协作机制,加强对专业标志的监督检查和航标损毁索赔工作。  强化航标管理模式改革

认真总结改革后各项工作的运行情况,修订、遥测遥控系统终端的安装,并积极协助海区做好遥测遥控在东海海区的全面推广工作。按照上级部门的统一部署,调整航标巡检周期和制度标准,巡检周期延长至一年,养护周期延长至灯桩4年、灯浮标3年。  按照国家人事部和交通部海事局的事业单位改革工作部署,在上海海事局的具体指导下,精心组织安排、周密计划实施,重新调整机构设置和岗位设置,实施分配制度改革,进一步明确各管理层级的职责。强化全员教育培训  加大职工教育培训力度,开展多层次、多形式、全覆盖的全员教育培训。各职能部门要根据工作实际,提供培训需求,并制订培训大纲。人事教育部门在充分调查各部门、各岗位实际培训需求基础上,认真编制培训计划,积极组织实施,提高培训质量,注重培训实效。依托局海事教育培训网,开展网上学习和培训。加大工人技术等级培训力度,提高技术工人钻研业务,提高技能的积极性。  认真落实“十一五”人才规划,注意结合我处具体工作实际和人员队伍现状,科学预估航标未来的发展趋势和人才需求趋向,通过优化配置、教育培训、轮岗锻炼等手段,充分挖掘职工队伍潜力,盘活人力资源,积极应对标数不断增加,人员不断减少的现实矛盾。通过引进人才和现有人员培训相结合的办法,探索建立管理和专业人才梯队制,形成合理的人才队伍梯队。强化内部规范运作  按局的统一部署,继续深化“规范管理年”活动,检查、评估现有各项制度的严密性、科学性,抓好基础管理、基本规范和基层建设“三基”工作。重点放在规章制度的落实上,要进一步简化工作流程,形成目标、执行、监督、反馈的全过程闭环机制,建立规范高效的内部管理体制。

《湖南省海事监管信息系统》投入试运行

由湖南省航海学会、省地方海事局、华中科技大学共同承担的湖南省海事监管信息系统研究开发项目,其内容包括“海事行政处罚信息系统”、“危险品运输监管信息系统”和“海事监管公告系统”。经过近一年的努力,先后完成了系统功能需求调研编制、系统软件开发和系统操作培训等工作,系统已于今年8月底在湖南省水上交通安全信息系统平台上安装成功,并自9月15日起,由长沙市地方海事局率先试运行,在试运行期间总结经验,进一步完善,待今年12月中旬经省海事局组织验收后,自2008年1月1日起在全省全面运行。

《内河定额》基础章修编工作进展顺利

由省航海学会承担的《内河定额》基础章修编工作按照前两次修编工作会议所确定的工作目标稳步推进。2007年8月28日,交通部交通建设造价站在内蒙古组织召开了《内河航运建设工程定额》修编阶段检查工作会议,湖南组的工作得到了部站的肯定。由于全国其他各修编小组的工作进度不一致,部站把完成修编送审稿的时间由今年年底延迟到2008年8~9月份。

湘江长沙综合枢纽和常德沅江西大桥 通航技术要求论证通过评审

2007年9月2日,湖南省航务管理局先后组织召开了对《湘江长沙综合枢纽通航技术要求论证》和《常德沅江西大桥通航技术要求论证》等两项课题研究报告的评审会。该两项报告由省航海学会分别受长沙市湘江综合枢纽办和常德市建设局委托组织编写。与会专家和有关单位的代表对两份研究报告进行了认真讨论和评审,认为《报告》符合国家的有关规范和技术标准的要求,编制依据正确,分析方法科学,通航技术要求论证结论正确、可信。两项《报告》均顺利地通过了评审。

运输专业委员会在长沙召开 2007年度学术交流会议

10月13日,省航海学会运输专业委员会在长沙景天宾馆召开了“论湖南水运发展学术交流会”。参加会议的有省航海学会副理事长周泉景、秘书长黄湘林、运输专业委员会委员等30余人。专业委员会副主任龚正平主持了会议。
本次会议的主要议题是进行2007年专委会学术论文交流、讨论2008年的运输专业委员会工作设想。此次共征集论文6篇,各论文作者在会上宣读了论文。其中:副主任委员龚正平撰写的赴加拿大学习考察报告《内陆集装箱多式联运服务》,将加拿大先进的运输方式及管理模式进行了介绍,并结合我省的实际提出了在湖南进行借鉴和推广应用的思路,这篇考察报告引起了与会代表浓厚的兴趣,加方开展多式联运的许多运作模式让大家耳目一新,深受启发。为了鼓励本专业会员积极撰写论文,专委会还给此次交流了论文的同志颁发了奖金。会上,主任委员陈益农就运输专业委员会2008年的学术活动、课题研究、考察学习等工作提出了初步设想,会议代表也各抒己见,使专委会明年的工作思路更加明确。会议取得圆满成功。

航行安全专业委员会 2007年度学术年会在衡阳召开

2007年9月26日至28日,湖南省航海学会第六届航行安全专业委员会在衡阳召开了2007年度年会暨学术研讨会,会议得到了衡阳市地方海事局的大力支持,出席会议的有省航海学会周泉景副理事长、衡阳市交通局滕南斌局长及专业委员会委员、论文作者等40余人。
会议回顾了今年航行安全专业委员会的工作,并对委员会下一步的工作作出了安排。会议对农用船的管理问题进行了深入的探讨,各基层海事管理人员介绍了农用船的管理经验,为我省下一步制定农用船管理办法提出了很多有益的建议。会议共交流学术论文16篇,共评选一等论文2篇、二等论文4篇、三等论文10篇。

湖南省航海学会港口专业委员会 召开2007年年会暨学术交流会

9月27日下午,经过充分的筹备,省航海学会第六届港口专业委员会年会暨学术交流会在长沙市好来登大酒店顺利召开。这次会议是第六届港口专业委员会成立以来的第一次年会,专业委员会非常重视,作了大量的会前准备工作,征集了论文17篇,并编辑出版成册,供参会人员学习交流。
会议由专委会副主任委员周作茂主持,航海学会秘书长黄湘林应邀参加了本次会议。根据当前的形势,交通厅规划办主任、港口专业委员会副主任委员陈新发同志在会上宣讲了交通部2007年5号令颁布的《港口建设管理规定》,重点对“港口建设程序管理”进行了宣贯,并结合我省的实际情况进行了讲解。本次参会的都是全省各大港口及港口行业的专家和领导,大家都认为:这次对新规定的宣贯是非常及时和必要的,也是一次很好的学习机会,通过对《港口建设管理规定》的宣贯,对新《规定》加深了理解。宣贯后接着进行了论文的交流。会议共选出了8篇论文进行交流,交流的论文内容非常广泛,涉及到科研、设计、施工、管理等各方面,与会者都很感兴趣,并进行了广泛的探讨。学术交流让大家对本行业的最新动态、管理、设计等方面的新技术、新理念有了更为深入的了解,开阔了思维,拓展了视野,有很大的收获。

随后,由周作茂同志通报了今年换届工作会议通过的第六届专委会顾问及委员的名单,并就专委会的建设、明年的工作计划提出了建议和设想。
最后,省航海学会秘书长黄湘林向大家转达了李安理事长的问候,他认为这次的会议非常有意义,不仅加强了委员们相互之间的沟通交流,也加强了大家对当前形势和本行业相关信息的了解,是一次圆满的大会。

(港口专业委员会供稿)

湖南省航海学会船舶专业委员会 召开2007年度学术交流会暨年会

2007年9月21日,在桂花飘香、风景秀丽的长沙石燕湖公园,湖南省航海学会船舶专业委员会召开了2007年度学术交流会暨年会。来自全省各地的29名专业委员和论文作者出席了会议。
会上,主任委员王勇总结了船舶专业委员会一年来的工作,提出了2008年专委会工作的总体构想。此次会议共征集到学术论文12篇,论文议题广泛,内容丰富,涉及到我省船舶工业发展思路的探讨、船舶建造企业改制经验介绍、造船新技术和新工艺推广、客渡船的安全管理等各方面。论文作者在会上宣读了自己的论文。大会成立了论文评审小组,对参与交流的论文逐一进行了评审,共评出二等优秀论文3篇,三等优秀论文4篇,优秀论文5篇。专委会向获奖的论文作者颁发了荣誉证书和奖金。
会议期间,与会代表就专委会的工作进行了座谈,大家情绪高涨,各抒己见,提出了许多新的、有益的建议,对促进专委会今后的工作具有重要作用。长沙市地方海事局对本次会议的会务安排给予了大力支持。会议取得了圆满成功。
(弓长供稿)

湖南省航海学会召开六届二次理事长办公会议

2007年9月30日下午,湖南省航海学会六届二次理事长办公会议在省地方海事局水上安全监控中心会议室召开。李安理事长主持会议,学会副理事长郑健龙、赵宁、胡铁牛、马军、周泉景、彭建国、李军和秘书长黄湘林到会,省交通厅副巡视员徐建同志出席了本次会议。
会上,黄湘林同志代表学会秘书处汇报了学会今年以来的主要工作。会议审议通过了由咨询工作委员会提交的《湖南省航海学会咨询和技术服务项目有关费用发放暂行标准》,研究并初步确定了学会将要承担的大源渡航电枢纽工程后评估项目的技术负责人,重点研究了今年年底将召开的学会六届二次理事会暨学术年会的主要内容,确定了本次年会各项专题报告的选题和报告人。为了加大对航运新技术、新经验的宣传力度,鼓励会员撰写论文并积极向《湖南交通科技》杂志投稿,同时也是为会员办实事,会议决定:今后我会会员撰写论文在《湖南交通科技》发表,其版面费由学会资助。会议对学会今年在技术咨询服务方面所取得的良好成绩给予了肯定,并通过了周泉景副理事长提出的关于对咨询工作做出重要贡献的同志予以奖励的动议。

航道专业委员会召开2007年学术交流会

2007年9月14日,省航海学会航道专业委员会在湘阴中凌大酒店召开了2007年学术交流会。第六届专委会委员、论文第一作者、益芦航线项目业主、监理单位代表和特邀航海学会领导等38人出席了会议。会议实地考察了正在建设中的益芦航线湘阴千吨级码头,听取了省地方海事局陈益农副局长对益芦航线建设情况、和厅规划办史精滢副总工对我国内河水运所面临的历史机遇及我省水运发展规划的介绍。
这次学术交流会共收到各会员单位提交的论文17篇,其中:《浅谈益芦航运建设航道疏浚工程施工》、《疏浚挖泥船环保绞刀头探析》、《浅谈大源度、株洲枢纽船闸安全高效通航》、《闸门泄洪对下游通航水流条件影响研究》、《多沙河流治理的新设想》、《提高耒水航道等级迫在眉睫》、《长沙综合枢纽船闸通航标准的研究》、《湘江干流航道发展规划简介》等8篇论文在会上进行了交流。

省航海学会周泉景副理事长在讲话中提到,航道专委会这次学术交流会是第六届省航海学会的首次学术交流活动,参加交流的论文有理论、科研、设计、施工、运行管理等各方面的内容,涉及面较广、也有一定的深度,他代表李安理事长对会议的成功举行表示祝贺。省航海学会黄湘林秘书长要求航道专委会将参加本次会议交流的有水平、有代表性的论文推荐到学会,并提请论文的第一作者踊跃向《湖南交通科技》投稿。
第六届航道专委员会主任委员、湘江航运建设开发公司总经理李军在讲话中认为,本次学术交流会会程安排较紧凑,在一天的时间里看了益芦航线湘阴千吨级码头建设现场、听了省地方海事局陈益农副局长和厅规划办史精滢副总工的介绍、进行了论文交流,会议开得很成功,对当前大家工作都很忙的情况下到会人数能达38人也很满意。他认为,内河水运占地小、投入少、能耗低、效益高,特别符合国家节能减排的环保政策要求;交通部对水运特别重视,明确提出到2020年要实现我国水运现代化;我省领导也很重视水运事业的发展,对水运投入正在逐年加大,“十一五”我省水运投资就达76亿元,比前十个五年计划水运投资的总和还多。但我省水运发展在国内仍处于落后水平,一是我省水运发挥作用的日益增大与水运的投入不相称,二是与外省对水运的投入差距较大。他希望各单位、各会员根据新的机遇,思考新的应对措施,去谋划新的发展。

2002~2005年获“中国航海学会科学技术奖”项目

2002年度获三等奖项目

1、大源渡航电枢钮总体布置试验研究主要完成人:刘晓平 周美林 黄伦超 胡旭跃 蒋昌波主要完成单位:长沙交通学院

2、全液压多用途工作船研制主要完成人:宋道溪 尹云开 张家栋 李新平 聂胜保主要完成单位:湖南省常德船舶厂、湖南省航务船舶设计研究所

2003年度获三等奖项目

新型材料防撞浮鼓技术研究主要完成人:陈健强 刘建平 余春荣 许足怀 任红浪主要完成单位:湖南省航务管理局、湖南省长沙航道管理局、湖南省益阳航道管理局

2005年度获奖项目
二等奖

桥区河段航道整治技术研究主要完成人:陈健强 胡旭跃 许足怀 许锡宾 胡越高 沈小雄 杨胜发 程永舟 陈益农 肖经城主要完成单位:湖南省航务管理局、长沙理工大学、重庆交通学院、湖南航务勘察设计研究院

三等奖

研制开发内河新型单船标主要完成人:陈健强 刘建平 余春荣 许足怀 刘国平 刘忠勇 彭剑虹 任红浪 谢成鹏 杜志军主要完成单位:湖南省航务管理局、湖南省长沙航道管理局

石山修武 世田谷村日記

R386

一月五日 十三時半過ポストにどさりと各種通信を投げ込み研究室へ。何人かが出ていてモソモソやっていた。広島と連絡、そうすんなりとはいかないな。十七時研究室発。クンメーで新年会十九時半迄。世田谷村に戻る。広島よりの連絡を待つもナシ、二十四時休む。

一月六日 日曜日 七時起床。新聞を読み、畑仕事。デッカイ石やコンクリートの基礎等を掘り起す。ここは昔、家の離れが建っていた場所で、解体に際して、そういう類のゴミを土中に埋め戻していた処なので、土を掘り返すのも生半可じゃない。寒い中一汗をかき、首と腰が痛くなりあわてて休む。十時半迄。もっと軽くやりたいのだが、石にツルやクワがガチリと当たると、コン畜生という感じになってしまうのだ。ただ、今土を掘り返して空気に当てておくと土の改良には良いらしい。

午後、連絡あり広島は苦戦しているようだ。キレイなプロジェクトがそうすんなりと進むわけがないのは承知しているが、仲々商売人達はしたたかだからね。午後は借りてきた「街道をゆく 二 韓のくに紀行」司馬遼太郎・朝日新聞社読む。流石司馬遼太郎の旅と我々の韓国の旅とは月とスッポンだナアと痛感する。

しかし、司馬遼太郎が随所で述べようとしている、日韓の歴史的交流の事実を知るに、渡辺豊和氏の秦氏外来工匠説(ゾロアスターはともかく)もあながち暴論ではないと思い始める。渡辺が言うのと、司馬が言うのとでは説得力が違うのではない。ただただコチラが俗人なだけなのだ。渡辺はいい線いってるのかも知れんな。しかし、何に触れるにせよ、歴史を体験するにせよ、何の知識もなく見るのと、充分な知識を得て見るのとでは視えてくる世界が全く別次元になってしまうのを知るのは辛い。

夕方、読了後、再び外に出て西の壁の下に瓦のスソをつける作業を少しばかり。マア思い付きに過ぎぬ作業だが、本ばかり読んでいると頭が痛くなるから。ホンのチョットでも作る作業をしていると、これも又、旅行と同じ意味合いがあるのに気付く。作るのは、畢竟好奇心の身近な発露に過ぎない。本を読んだり、旅をするのと同じ世界だ。十八時前作業を止めてフロに入る。セーターに枯草がいっぱいついてしまって取れない。

誰かと話している時にフッと良い考えが生まれたりする事が多かったような気がして、最近の如くに一人で居る時に、一人で考え抜くのが弱い現実に立たされている。チョッと辛いが、これは正面から立ち向かわないといけないのも知っている。年令なりの知恵だろう。しかし、瞬発力に陰りが出てきたらどうにもならないのだろうな。

一月七日 月曜日 七時過起床。三階の南テラス。自作のテラスのヘイに残飯を置いていたが、しばらく鳥は来なかった。ようやく気が付いた様で、先ずハトがやってきて、それから雀達がやってきた。飯をついばんでいる。三、四日気がつくのに時間がかかったな。カンボジアのひろしまハウスに鳥がとまれるようにレンガを幾つも突き出しておいたのに、実際鳥たちがとまっているのを見た時は人知れずヤッタネと思ったものだが、世田谷村もその状態に近付いている。

猫を飼うようになって、二階のエサ台は危くなった。猫が鳥を襲うからだ。それでしばらく鳥の姿を身近に見る事はなかった。ようやく、鳥が帰ってきた感がある。韓国の川廻村で久し振りに野放しのチャボを見たが、近くの家でもニワトリを沢山野放しにしている家があるのを知っている。木に登って眠っているようだが、猫には狙われるのだろうな。一階に早くニワトリ小屋を作りたいのだが、まだ家族の同意が得られない。

昨日描いたドローイングを眺めると少々白々とせざるを得ないが、これはこれでやり続けたい。今日から研究室ではメキシコのプロジェクトを本格的に始動させる。

仏国寺 (慶州)

国立慶州博物館を出て、今度は、吐含山圏へと行きます。新羅の魂がやどっている霊山である吐含山(トハムソン)を中心とする国立公園内には、世界文化遺産に指定されている、仏国寺と石窟庵があります。まずは、車で30分ほどの仏国寺(ブルグクサ)に到着。仏国寺には6つの国宝があるとのこと。これは見応えありそうだなー。




入場料3,000Wを払って、一柱門をくぐって中に入ります。

少し歩くと、天王門があります。四天王が守っているのです。迫力あるなー。

天王門をくぐり、さらに歩くと青雲橋・白雲橋が目の前に。この橋は、金堂の手前に上る前にあり、2つの橋の下が青雲橋、上が白雲橋です。全部で33階段になっていて、仏陀の境地に至るまでの33の段階を現していて、そこを上ると、釈迦如来の仏国の世界に通じる紫霞門へと通じているのです。

でも、実際はここの階段からは上れないので、右手の坂から進んでいきます。手前に水飲み場があって、手とか洗って行きました。観光地とあって、家族連れとかカップルとか多いんだけど、みんな写真撮りまくりね。しかも、立派な一眼レフのカメラに三脚付き。ポーズもつけまくりで、すごいなー。



大雄殿(金堂)の手前には、多宝塔が。これも立派だな。紫霞門から青雲橋・白雲橋を見たりもできます。


大雄殿はこの仏国寺の中心であり、釈迦牟尼仏が中に置かれています。ここはみんな撮影しまくりだね。人がいっぱいだ。

こういうなんでもないところもかっこいいな。

階段を上ってみたり。石を積んでみたり。

この後も、極楽殿、毘盧殿と見所がありすぎ。どれも力強くてかっこいいんだな。写真も何枚撮ったかわからないぐらいたくさん撮ってしまった。40分ほどでけっこう急いで回ったんだけど、これふつーに回ったら軽く1時間はかかるだろね。もー、目の保養しまくりで、かなりお腹いっぱいの状態

韓国にて―小旅行―

小旅行行ってきましたよー!さ、さすがに疲れました(´ヘ`;でも楽しかったです。書きたいことがいっぱいありすぎて、どう書けばいいかわからない・・・とりあえず、順番に。
一日目。朝9時に出発して、バスで大邱市内へ。そこから鉄道(KTX?)で慶州へ行きます。初めての鉄道です。思っていたより快適(´ー`*45分程で慶州市へ到着。


ほほーここが・・・。大晦日(?)のためか、道に沿って沢山の屋台が並んでいます。案内所で今日泊まる民宿の場所を確認した後、本日の目的地、仏国寺へ。それにしても、すごい雨^^;今までも出かける日は必ず雨が降ってましたが、現地に着くと止んでいたので、雨の中の観光は、こっちでは初めてです

バスに乗ること30分。付きました、仏国寺。ここから結構歩くことになるので、まずは腹ごしらえ。名前忘れましたが、キノコ鍋のようなものです。お店の人がマツタケマツタケと言っていたのですが、どうやらエリンギのことのようです。エリンギたっぷり。冷えた体も温まる、とても美味しい鍋でした^^どんぐりの豆腐というものを食べたんですが、特に癖もなく、食べやすかったです。おなかもいっぱいになったところで、仏国寺へ。満腹の体に坂道はきつい^^;ひーひー言いながら上って、やっと入り口。『仏国寺』の門が出迎えてくれます。

中に入って、初めにくぐる門の所におられるのは四天王。ここで、いきなり日本語を話す現地のおじいさんに話しかけられました。「無料でガイドするので、後で私のお土産屋寄ってください」とのこと^^;ガイドがあるのは便利なので、頼むことにしました。後が怖い・・・ですが、まあとりあえず。ガイドさんの達者な日本語のお陰で、聞かなければ分からなかったことを沢山知ることができました。

一番印象に残ったのは、ここと奈良の法隆寺は大きく関係しているということ。日本に戻ったら、奈良行きたいです。中学の時に行ったことはあるのですが、そのときは何も考えずただ巡っただけだったので^^;

一通り案内が終って、仏国寺を出ると、おじいさんがお土産屋まで車で送ってくれるとのこと。買わなきゃ帰れないか、と思いつつ、お土産屋へ。宝石や伝統工芸品のお土産屋でした。ここらは紫水晶の産地らしく、紫水晶のアクセサリが沢山ありました。さすがに日本円で8000円のネックレスは手が出ず、一番安い紫水晶のキーホルダーを2つ購入。ここで買った方が安かったんですかね?宝石等の値段は分からないので^^;

お土産も買ったので、次は石窟庵へ。この辺りから天候がかなり悪くなってきました。山というのもあるのでしょうが、それにしてもすごい霧です。霧で遠くがほとんど見えず。