lunes, 7 de enero de 2008

パリ, 各地域 括弧内の数字は区を示す。

右岸
シャンゼリゼ通り (8)
凱旋門からテュイルリーまで続く、パリを代表する目抜き通り。
シテ島 (1, 4)
パリ発祥の地であり、
ノートルダム大聖堂など歴史的建造物も多い。
パッシー (16)
高級住宅地。
オペラ界隈 (2)
デパートや高級ブティック、銀行などが立ち並び、日本料理店や日本の生活雑貨店が並ぶ
日本人街でもある。
マレ (3, 4)
貴族の館が集中して残る地域であり、現在は裕福なユダヤ系住民が多く住む。美術館やギャラリーも多い。お洒落な
ゲイの集まる地域でもある。
バスティーユ (4, 11, 12の各境)
フランス革命の発端となった場所として有名だが、今では若者が集まる歓楽街となっている。オペラ・バスティーユもある。
オベルカンプ (11)
同じく歓楽街だが、比較的新しい。テクノ音楽やゲームなど新しい文化を紹介する場として認識され、アニメショップなども複数見られる。
ピガール、ブランシュ (18)
モンマルトルのふもとに位置する。高級キャバレー「ムーラン・ルージュ」があるが、その他は怪しげな
キャバレーやいかがわしいセックスショップが多く並ぶ性的歓楽街でもある。昔から猥雑な界隈であり、永井荷風の「ふらんす物語」にも描かれている。
モンマルトル (18)
パリを見下ろす高台。パリ市に編入されたのは1860年以後だが、現在ではパリを代表する名観光地となっている。2001年のフランス映画『
アメリ』の舞台にもなった。サクレ・クール寺院が一番の高台にそびえ、そこから西側へ行くにつれテルトル広場やムーラン・ド・ラ・ギャレットなど観光名所が多く並ぶ。寺院東側は観光地ではなくアフリカ系移民が多く暮らすシャトー・ルージュ地区。
ベルシー (12)
昔は
倉庫街だったが今は再開発が進み、大蔵省やベルシー公園、ワイン倉庫街を改造したレストラン街などが新しい観光地となっている。
ベルヴィル (11, 20)
元々はパリ郊外のコミューンだったが、
1860年にパリに編入された。アラブ系、アフリカ系、ユダヤ系(労働者系の)、中国系(華僑)など、主に労働者系の多くのが暮らす地域。安くて異国的なレストランなどが集中する。名前とは裏腹に雑多で庶民的な界隈であるが、近年ベルヴィル公園が整備され、再開発が進んでいる。エディット・ピアフの生地でもある。トルビヤック地区に次いで、1970年代以降パリ第2の中華街が形成されつつある。
バルベス (18)
ベルヴィルと同じくアラブ系やアフリカ系の移民が多く暮らす。有名な安物服屋やアフリカ系商店街があり、人口密度も多く、駅前は常に混雑している。

[編集] 左岸
モンパルナス (14)
庶民的な雰囲気を残す左岸の地域。
サンジェルマン・デ・プレ (5, 6)
歴史的地区であり、美術学校に近いことからギャラリーも多い。
サルトルら哲学者が集まった場所として有名な2軒のカフェがある。カルチエ・ラタンに隣接する。
カルチエ・ラタン (5, 6)
ソルボンヌ大学をはじめ大学が集中しており、昔から学生街として有名。カルチエは「地区」、ラタンとは「ラテン語」のことであり、「ラテン語を話す (= 教養のある) 学生が集まる地区」という意味が語源。羅典区。
エッフェル塔とシャン・ド・マルス公園 (7)
パリを代表する観光名所としてあまりに有名。セーヌ川の観光船のうち有名な2つの船の発着点ともなっており、観光客が集中する。
トルビヤック (13)
いわゆる中華街だが実際は
ベトナム系が多く、中華・ベトナム料理店が並ぶ。昔はゴブラン織りで栄えたが、今は高層ビルが林立する再開発地域である。川、運河

[編集] 川

セーヌ川
セーヌ川
パリ市内を横断する川であり、
パリのセーヌ河岸世界遺産に登録されている。パリではセーヌ川の北部を右岸 (Rive Droite) 、南部を左岸 (Rive Gauche) という。パリ市中心部にある川中島であるシテ島は、パリ市発祥の地である。シテ島の東にもうひとつサン・ルイ島という島がある。セーヌ川は重要な運路であり、パリ市内では観光船のほか運搬船も多く行き来する。パリ市東部郊外のごく近い場所でセーヌ川とマルヌ川が合流し、ベルシーからパリに入り、途中サン・ルイ島とシテ島を抜け、アンヴァリッドのあたりで南西に折れ曲がり、そのまま15区と16区を抜けていく。パリを抜けた後は蛇行を繰り返し、ノルマンディー地方を経て大西洋へと流れていく。パリ市内には多くの橋がかかっており、歴史やいわくのある橋も多い。詳細はセーヌ川の項を参照。
ビエーヴル川
13区のトルビヤック地区やゴブラン地区には、セーヌ川の支流であるビエーヴル川という自然の川がかつて流れていた。今は下水道として完全に地下化してしまい、現在の一般の地図上でその存在を確認することは出来ないが、古地図などで見ることが出来る。国立ゴブラン織り製作所は、この川の上に存在する。

[編集] 運河

サン・マルタン運河
サン・マルタン運河
パリ東部セーヌ右岸を南北に流れる
運河。セーヌ川に面したサン・マルタン運河の出入口はアルスナル港と言う。ここからバスティーユ広場を経て、運河は地下水道となる。10区に入ったあたりで、運河は地上に顔を出す。この辺りには水位を上下するための水門がいくつかある。10区の運河沿いにはかつて革製品などの町工場が多く並んでいたが、今はそれらの工場は衰退しており、徐々に再開発の動きが進んでおり、最近は、景観を生かしてレストランが並ぶ。10区と19区の境にある地下鉄2番、5番、7番のジョレス駅およびスタリングラッド駅付近にあるラ・ヴィレット運河まで出たところで、サン・マルタン運河の名称は終わる。今はサン・マルタン運河を走る運搬船はほとんどないが、観光船が走っている。
ウルク運河
サン・マルタン運河と一続きの運河だが、ラ・ヴィレット運河より以北はこの名称になる。パリ19区からパンタン市へ、さらに遠方のウルク川へと繋がっている。メトロ5番は、終点、ボビニー・パブロピカソ駅手前でこのウルク運河沿いの地上部を走る。ラ・ヴィレット公園の手前でサン・ドニ運河と分岐(合流)している。
サン・ドニ運河
ラ・ヴィレット公園の手前でサン・ドニ運河と分岐・合流している。パリ市内では19区のごく一部を流れる。パリ郊外のオーベルヴィリエ市、サン・ドニ市を経て、パリ北部で蛇行するセーヌ川下流と合流する。ウルク運河経由で水路をショートカットするためにつくられており、運搬船が頻繁に行き来している。
[編集] 広場、公園、森

[編集] 広場

コンコルド広場

バスティーユ広場

ヴァンドーム広場

シャルル・ド・ゴール広場
コンコルド広場 (1)
パリの中心部、テュイルリー公園とシャンゼリゼ通りに挟まれて位置する。歴史ある広場で、フランス革命の後にはルイ16世や
マリー・アントワネットの処刑が行われた。現在はツール・ド・フランスの終着点としても知られ、最終日には多くのファンが集まる。
ヴァンドーム広場 (1)
ナポレオン2世の記念柱が立っている。この広場および隣接するサントノレ通りには高級宝石店や高級ブティックが並ぶ。
バスティーユ広場 (4, 11, 12の各境)
フランス革命の発端となったバスティーユ要塞があった場所で、要塞は革命後に取り壊されて現在の広場となった。広場中央には革命の記念柱が立っている。広場に面してオペラ・バスティーユがある。サン・マルタン運河出入口のアルスナル港にも面している。
ヴォージュ広場 (4)
バスティーユ広場のすぐ近くだが奥まった場所にあり、赤い煉瓦と石造りの美しい建物に囲まれたほぼ正方形の広場である。その赤い建物の一角には
ヴィクトル・ユーゴーの住んだ家がある。フランス革命前は国王(ロワイヤル)広場と呼ばれていた。
サン・ミッシェル広場 (6)
カルチエ・ラタンの中心部に位置し、セーヌ川および対岸のシテ島、ノートルダム寺院に面している。本屋などが多くあるほか、広場裏手には安手のレストランが立ち並ぶ。
シャルル・ド・ゴール広場(エトワール広場) (8)
凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを含め放射状に道路が伸びる、パリの顔とも言うべき広場。元はエトワール広場と呼ばれたが、
第二次世界大戦シャルル・ド・ゴール将軍をたたえて現在の呼称となった。通常はエトワール広場の呼称でも通じる。1860年のパリ拡張以前はパリの西の玄関だった。
レピュブリック広場 (3, 10, 11)
訳すと共和国広場。庶民的な地区に位置するが、広場としてはきわめて大きいそれの一つ。マニフェスタシオン(デモ)がある際にはほとんどここが起点となる。
ナシオン広場 (11,12)
エトワール広場と同じく道が放射状に伸びる、1860年以前のパリの東の玄関。かつてカルーゼル凱旋門が置かれていたが現在同門はルーヴル正面に移され、現在ナシオン広場には2つの柱が立っている。
ロベスピエールの恐怖政治時代にはここで多数の反体制者がギロチンで処刑された。
テルトル広場 (18)
モンマルトルがパリに編入される以前はこの広場が村の中心だった。現在は絵描きが多く並ぶ一大観光名所となっている。
イタリー広場 (13)
パリの南の玄関口。

[編集] 公園、庭園

公園はパーク (Parc)、庭園はジャルダン (Jardin) と呼ばれ区別されている。
テュイルリー庭園 (1)
パリの中心部、ルーヴル宮の正面に位置する。かつて
テュイルリー宮殿があった。
リュクサンブール庭園 (6)
リュクサンブール宮殿(現在のフランス上院議会)の正面に位置する庭園。カルチエ・ラタンに隣接し、学生たちの憩いの場でもある。
シャン・ド・マルス (7)
エッフェル塔に登ると先ず目に入るのが眼下に広がるこの公園の全景である。かつては軍事演習場だったところ、1889年のパリ万博の会場にもなった。
モンソー公園 (8)
1860年のオスマン公によるパリ大改造で公園に整備された。
ベルヴィル公園 (20)
庶民的なベルヴィル地区に位置する。高台になっており、パリを一望できるとても眺めの良い公園。
ビュット・ショーモン公園 (19)
同じく1860年のパリ大改造で整備され、昔の石切場跡を公園にした。
植物園 (5)
その名の通り
植物園で、動物園も併設する(ただしヴァンセンヌの森の動物園よりは小さい)。敷地内には自然史博物館がある。
モンスーリ公園 (14)
これも1860年のパリ大改造で整備された。14区の外れにあり、
国際大学都市に面している。
ジョルジュ・ブラッサンス公園 (15)
馬市場、家畜市場の跡を整備した公園で、銀色の巻貝のような劇場を併設する。馬市場の跡の19世紀の鉄骨屋根のテントの下では、定期的に古本市が開かれる。
ラ・ヴィレット公園 (19)
庶民的な地区に属するが、かつての食肉処理場跡および旧鉄道用地の広大な敷地を再開発して公園とした。広大な敷地内にはサン・ドニ運河(サン・マルタン運河に繋がる)が流れる。代表的な建物として、食肉処理場時代の19世紀の鉄骨建築ホールをそのまま流用したグランド・アール(見本市会場)、科学産業都市(博物館)および音楽都市(
クラシック用コンサートホール)、ZENITH(ロックポップス用コンサートホール)、パリ音楽院現校舎などがある。
アンドレ・シトロエン公園 (15)
自動車会社シトロエンの工場跡および鉄道敷地跡を整備して公園にした。大きな芝生の広場がある公園で、現代的なデザインである。
ベルシー公園 (12)
フランソワ・ミッテラン元大統領により整備された。新大蔵省の建物に面している。付属のベルシー体育館ではスポーツのほかコンサートなども行われている。

[編集] 森

ブローニュの森
パリには東西2つの大きな森があり、パリ市民の憩いの地となっている。現在はこの森もパリ市の敷地に含まれる。
ブローニュの森 (16)
パリの西側に位置する。16区の高級住宅街パッシーやオートゥイユ、近郊の高級住宅市街に面し、高級社交場でもあるオートゥイユ競馬場なども併設する、高級的な雰囲気の漂う森である。ただし夜暗くなってからは
ゲイの人達が集うことでも知られる。
ヴァンセンヌの森 (12)
パリの東側に位置する。こちらは庶民的な森として知られ、アフリカ・
オセアニア博物館のほか、動物園農場(パリ唯一の農場)、パーク・フローラル(花公園)などを併設する。中世の砦だったヴァンセンヌ城もある。

[編集] 四大墓地

パンテオン
パリは東西南北に4つの主要な墓地があり、多くの著名人が眠っている。
ペール・ラシェーズ墓地 (20): 東
パッシー墓地 (16): 西
モンパルナス墓地 (14): 南
モンマルトル墓地 (18): 北
この他、パリ中心部に位置する
パンテオンにもルソーヴォルテールヴィクトル・ユーゴーデカルトといった偉人たちが埋葬されている。

[編集] 郊外

パリの郊外にはヴェルサイユなど有名な観光地がいくつかあり、そのほとんどはパリから日帰りで往復できる。
16-17区に繋がるセーヌ川下流の西部方面には閑静な高級住宅地が広がっている。逆に18~20区から繋がる北東方面は低所得層の集まる地価の安い郊外となっており、近年は犯罪増加などの問題を抱えている。フランスで単に「郊外(
バンリュー)」という場合、こうした地域を婉曲的に指すことが多い。その他の方面の郊外は一般的なベッドタウンとなっている。
パリより
電車で各30分ほど離れた郊外にはいくつかの衛星都市があり、近代建築によって町の機能が整えられている。中でもラ・デファンスには「新凱旋門グランダルシュ」をはじめ高層ビル群が集中しており、多数の企業オフィスを抱える新都心となっている。
詳細は
イル・ド・フランス地域圏を参照

[編集] 観光名所

パリ


パリ(Paris、巴里)は、フランス首都であり、イル=ド=フランス地域圏首府ロンドンニューヨーク東京と並びトップ水準の世界都市である。


パリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。市役所はセーヌ川右岸の北緯48度52分00秒、東経2度19分59秒に位置する。行政上では、一コミューン単独でを構成する特別市であり、中心部から順に20個の行政区に分割される。市域は西部のブローニュの森と東部のヴァンセンヌの森を併せて105.40平方キロメートルと、世界の大都市の中でも狭い部類に入る。更に旧城壁部分(純粋な市街地)の面積となると86.99平方キロメートルしかない。そのため市街地エリアに限定した人口密度は2万5000人近くに達する。ヨーロッパ随一の過密都市である。市域人口は1950年代の約290万人をピークに長くドーナツ化現象によって減少し続けたが、ここ数年は減少が下げ止まり微増傾向に転じている。特に、再開発が進む南部や移民流入の著しい東部での人口増加が目立っている。
フランスの政治・経済・文化の中心である上、世界四大都市にも挙げられるほどの世界都市であり、歴史的な建造物や美術館を数多く抱えるため「芸術の都」、「花の都」などと呼ばれる、世界屈指の観光都市としての顔も持つ。歴史的に戦火を巧みに避けてきたため、パリは街全体が数多くの由緒ある歴史的建造物を有する一つのテーマパークのような存在になった。
古くから宗教・文化面などにおいて欧州各地、そして世界中から人を集める多民族集住地区であった。1960年代以降旧植民地であったアフリカ中部・北部やインドシナ半島、更に近年は中近東や東欧、中国などからの移民も増えてきた。
パリっ子はパリジャン (Parisien) (男性)・パリジェンヌ (Parisienne) (女性) と呼ばれる。



[編集]


語源はパリシー (Parisii) と呼ばれるガリア人部族。Parisiiは「田舎者」、「乱暴者」を意味する。ローマ人が入ってくる以前のこの土地の先住民である。欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめているギリシャ語ではΠαρίσι(パリーズィ)、イタリア語で Parigi(パリージ)と発音される。フィンランド語では Pariisi(パリーシ)と発音されるのはここからだという説がある。Lutetia (Parisiorum) 「(パリシーたちの)ルテティア」とも呼ばれていた。

[編集] 古代

セーヌ川の中洲シテ島は古くからセーヌ川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシー族の集落ルテチアがあった。紀元前1世紀ガリア戦争の結果ルテチアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテチアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場や公衆浴場などが築かれた。しかしローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころからルテチアに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。


フランス王国首都

5世紀末にフランク族の王クロヴィス1世はパリを征服し、508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ(カール大帝)以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。885年から886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。このときフランク王シャルル3世(カール3世)は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代ってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。

1223年のパリ
西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。王権の強化にしたがって首都も発達し、フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁が築かれた。このころのパリは初期スコラ学の中心の一つでもあり、11世紀頃からパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、のちのパリ大学につながっていった。パリ大学はヨーロッパ最古の大学のひとつであり、特に神学の研究で著名であった。右岸に中央市場「レ・アル (Les Halles)」が作られたもこのころである。こうして左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。12世紀にはパリ水運商人組合が結成された。後にその商人頭は事実上の市長として市政を司るようになり、エティエンヌ・マルセルのように王に匹敵する権力を持つものも現れた。市の規模が大きくなるにつれ、城壁は何度か壊され市域が拡大していった。

「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」に描かれた15世紀のルーヴル宮殿
百年戦争後半にはパリはオルレアン派とブルゴーニュ派の対立で混乱に陥った後、イングランドと同盟したブルゴーニュ公の支配下に入った。しかし1436年にはフランス軍に奪還され、翌1437年シャルル7世は改めてパリをフランスの首都と定めた。しかしこの後もフランス王はパリには住まず、ロワール渓谷の城を好むようになった。ユグノー戦争の時代にはパリはカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺が起こった。
アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。これ以降パリ市内ではテュイルリー宮殿リュクサンブール宮殿廃兵院などの大規模建築が相次いで作られた。しかしルイ14世はパリ郊外のヴェルサイユに造営した離宮に政治の本拠を移し、ルイ16世の治世の末期までヴェルサイユが政治の中心となった。
1789年7月14日、パリ市内で発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。ヴェルサイユ行進でルイ16世が強制的にパリのテュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。

19世紀
19世紀のパリは政治的には安定しなかったものの、産業革命の到来により経済的、文化的には繁栄した。
1837年にはパリ(現在のサン・ラザール駅)-サン=ジェルマン=アン=レー間に鉄道が開通し、以後各方面への鉄道路線が次々と開業した。
第二帝政下ではセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによってパリ改造が行なわれた。中世以来の狭い路地を壊して道路網を一新したほか、上下水道の設置など都心部の再開発インフラストラクチャーの整備が行なわれた。これによりパリは近代都市として生まれ変わった。現在のパリ市中心部の姿はほぼこの時の状態をとどめている。

パリ・コミューンのバリケード
普仏戦争ナポレオン3世の主力軍が敗北すると、パリは1870年9月からプロイセン軍に包囲された。翌1891年1月に政府は降伏したが、パリの労働者らはこれを認めず蜂起した。3月には史上初の労働者階級の政権パリ・コミューンが発足したが、ヴェルサイユ政府軍の攻撃によりわずか2か月で崩壊した。コミューンの最後はパリ市内での市街戦となり、大きな被害を出した。
19世紀末から20世紀初めにかけて、パリでは数会の万国博覧会が開かれた。1889年の万博ではエッフェル塔が建てられ、1900年にはメトロが開業した。この時代をベル・エポック(よき時代)と呼ぶ。

20世紀
第一次世界大戦の緒戦ではドイツ軍がパリの目前にまで迫り、政府が一時ボルドーに避難するほどであったが、マルヌ会戦の勝利により辛くも陥落を免れた。大戦後半にはパリ砲による砲撃を受けた。
戦間期にはパリは芸術の都としての地位を回復し、アメリカやヨーロッパなどから多くのボヘミアンたちを惹き付けた。

パリに入城したドイツ軍
しかし第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツのフランス侵攻開始から1か月で政府はパリを放棄せざるを得なくなり、1940年6月14日にはドイツ軍がパリをほぼ無血で占領した。6月23日にはアドルフ・ヒトラーがパリに入った。占領下のパリではレジスタンス運動に身を投じる者がいる一方で、積極的にドイツ軍に協力する市民もいた。後者は後に対独協力者として糾弾されることになる。
ノルマンディー上陸作戦から2か月半後の1944年8月25日、パリは連合国軍と自由フランス軍によって解放された。このときドイツ軍のパリ駐留部隊を指揮していたディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍はヒトラーからパリを破壊するよう命令されていたが、これを拒んで部隊を無抵抗で退却させ、自身は降伏した。この英断によりフォン・コルティッツは戦後、フランスから名誉パリ市民号を贈られている。
戦後のパリでは主に郊外(バンリュー)で人口が急増した。環状高速道路ペリフェリックをはじめとする高速道路網や、郊外と都心を直結する鉄道RERなどが整備され、ラ・デファンス地区がオフィス街として開発された。一方で豊かな都心と貧しい郊外という構図が生まれ、失業や治安の悪化が社会問題となった。2005年にはパリ郊外暴動事件が発生した。

[編集] 行政区画の変遷

フランス革命後の地方自治制度では、パリ市はセーヌ県(当初の名称はパリ県)に属する一コミューンであり、同県の県庁所在地であった。市域は現在より狭く、ほぼメトロ2号線6号線の内側に相当する。
1860年に市域が拡張されてほぼ現在の範囲となり、同時に20の行政区が設けられた。1968年にはセーヌ県が廃止され、パリ市は単独で県と同格の自治体とされた。1976年イル=ド=フランス地域圏が発足すると、パリはその首府となった。

行政区

パリは、一市単独でを構成するコミューン、いわゆる特別市である。市内は20の行政区に区分されている。区は、パリ市街地の1区から、右回りの渦巻状に番号が付けられている。1 - 4、8 - 12、16 - 20区は右岸に、5 - 7、13 - 15区は左岸に位置する。

国立慶州博物館 (慶州)

皇南パンから、10分弱で「国立慶州博物館」に到着。さっきから近いところをうろうろと移動してるんだな。博物館の入場料は400W。どこも安いよね。日本だったら確実0が1つ多いね。ここも広いよー。新羅千年の歴史があつまってるとあって、考古館、美術館、雁鴨池館、特別展示館からなり、展示物も約3,000点が常時見られるようになっているとのこと。屋外展示も多数あって、とても短時間で見て回れる量じゃないね。

入口を入ってすぐ目に付くのが、聖徳大王神鐘(エミレの鐘)。新羅第35代景徳王が、亡くなった父、聖徳王の冥福を祈るために作り始めたが、完成に至らず、その息子である恵恭王に引き継がれ、やっと完成した大鐘。音色と形状が優れいている銅の鐘として、国宝に指定されています。
考古館では、金の冠や装飾品、青銅でできた装飾品に武具など、高度な文明があったことが感じられる展示で、けっこう圧倒される。美術館では仏教文化を見ることができます。慶州の全体図で、さっきまで見てまわってた大陸苑や瞻星台、そしてこれから向かう仏国寺などの位置がわかって楽しかったな。サインには日本語表記もされているので、助かったー。

展示物見すぎて、ちょっとぐったりきたね。屋外展示を少し眺めてから、トイレに行ったら、ここは入口のところにトイレットペーパーがあって、それぞれ自分が使う分だけもって、個室に入るのだ。トイレットペーパーあるだけいいけど、たりなかったらどうしよーって思うよね。とにかく、韓国ではポケットティッシュは必須だね。水洗の水圧も弱いので、紙は流さずに、だいたい個室内に設置されているゴミ箱に入れます。これは初めてだと戸惑うよね。つい、くせで流してしまったりするんだよね。気をつけねば

石窟庵 (慶州)

仏国寺からカーブだらけの道を山の方、上の方へと進む。99曲がりとも言われていて、ほんとカーブだらけだよ。20分くらいで、石窟庵(ソッグラム)に到着。ここも世界文化遺産だ。かなり上まで来たみたいだね。駐車場からすぐのところが紅葉がすごくきれいだったな。もう下の方では紅葉が終わりかけだったけど、こっちはほんときれい。真っ赤だよ。きれいな紅葉の下で、チマチョゴリのおばさんが写真撮影してました。ステキだな。

入場料3,000Wを払い、吐含山石窟庵という門をくぐり10分ほど歩くと、やっと寺院が見えてきました。しかし、ここを歩いていく途中にすれ違うカップルはほとんと三脚付きカメラだな。ペアルックも多数目撃。韓国のカップルってほんとラブラブだなー。

石段をのぼり上まで行くと、本尊の釈迦如来像のお姿が。写真撮影禁止、しかもガラス越しの拝見だったけど、立派だったなー。花崗岩を彫って作れらてるんだって。人間ってこんなもの作っちゃうんだから、ほんとすごいよね。こんな上まで上がってきたかいがあったなーって思うよ。感心しちゃいました。

来た道を引き返すと、もうすっかり日が暮れかけているところ。夕日がきれいでした。これで、今日の慶州ツアーもおわりです。まだ5時過ぎだけど、おなかすいたー。これからばんごはん食べに行くよ。

花郎 (慶州)

ばんごはんは、サムゲタンをリクエスト!何回もプサンに行っている社長がおいしいよーというので、ドライバーの鄭さんに地元でおいしいお店に連れて行ってもらいました。仏国寺から普門湖に行く途中にある、慶州民族工芸村の向かい側の少し手前にある「花郎」というお店は。離れがたくさんあるようなところで、その中の1部屋に通されました。サムゲタンは1羽が30,000Wで、5人で食べるなら大きめのがいいよとのことで、45,000Wのサムゲタンにしました。1人前9,000Wだね。

ガイドの陸さんやドライバーの鄭さんと話をしながら待ちます。鄭さんは若いなーと思っていたら、1974年生まれと、ぴのこと同い年でした。南の方に人は素朴ではずかしがりやさんが多いみたい。韓国ドラマのストレートな愛情表現は、韓国でも北の方、ソウルなどがそうですよって。インターネットで日記を書いてる話をしたら、けっこう興味があるみたいだったな。今日1日はほんと快適なドライブだったよ。プサンはタクシーとかでも運転があらくて、交通マナーとかひどいなーと思ったけど、鄭さんの運転は心地よくて、あの石窟岩へのカーブでも全然酔わなかったもんね。名刺もしっかりもらったよ。

お店に入ってオーダーしてから、1時間ほどたったころに、やっと料理が登場。でも、まずは初めてみる食べ物が。なんだろーと思ったら、トットリムッといって、ドングリの粉で作ってある食べ物。こんにゃくみたいな感じかな。あまり味がなくて、野菜などと一緒に食べるんだけど、けっこうはまるかも。

そして、さらに30分たったころ、やっときましたサムゲタン。1時間半もまったよー。鶏肉がやわらかくて、めちゃめちゃおいしい!高麗人参やナツメなどいろいろな薬草のスープでじっくりと煮込んであるんだ。一般的なサムゲタンは鶏の中にもち米がつまってるみたいなんだけど、ここのはこのサムゲタンで使ったスープでもち米をお粥にして出してくれるのだ。このお粥がまたばりうまでした。サムゲタンすごいよ。また食べたい!

だいたい2時間ぐらいかけてのゆっくりとした食事でした。外に出るともう真っ暗だ。

最後に、普門湖のほとりにある現代ホテルまで送ってもらいました。鄭さんありがとうございました。慶州のドライブはたのしかったなー。慶州は実は、町中に桜並木があるんだって。この普門湖のまわりもそうで、桜の季節にはほんときれいとのこと。ほんと、素敵な古都でした。

現代ホテル (慶州)

今日の宿泊先、普門湖(ポムンコ)のほとりにある「ホテル現代(ヒョンデ)慶州」に着きました。この普門湖の周りには、一流ホテルがたくさんあるんだけど、その中でも立地がいいのが、ここなんじゃないかな。現代といえば、韓国の代表的大企業だよね。夜なので、外から見てもよくわかんなかったけど、なんかでかそう。フロントもロビーも立派だなー。チェックインをして、ぴのこたち3人はオンドル部屋へ。陸さんはガイドさんたちが泊まる部屋があるということで、また明日。

オンドル部屋もさすがに広いね。バスルームをあけると、正面に広い洗面所、右側にバスタブ、左側にシャワールームとトイレ。明らかにゴージャスです。さすが、特1級ホテルだね。

部屋を出て、館内体験だ。大きなラウンジに、レストランもたくさんあるね。ボーリング場、プール、ゲームセンター、サウナ、お土産やさんなど、アミューズメントもたっぷりで、ほんと巨大ホテルやん。ラウンジで、優雅にケーキセット食べてみました。ケーキ、全然おいしくないよー。パセリのってるし。ちょうど生演奏があってたけど、いつの時代だろーって感じで不思議な夜でした

高速バスターミナル

9時過ぎに、高速バスターミナルへ。まずは切符を買います。プサンまでは4,000W。約1時間半でつくとのこと。はやーい。行きは列車で2時間だったのに、高速バスって早いんだね。9時半出発でまだ時間があるので、売店とかうろうろしてみました。おかし買っちゃおう。ガムはやっぱりロッテだね。おっとっともあるよ。なんか絵がかわいいぞ。それぞれ500Wでした。


時間になったので、バスにのりこみます。座席はけっこうゆったりでうれしい。中もキレイだね。そろそろ出発なのになかなかでないなーと思ってたら、マラソンがあってるので、出発できないって。そういえば外がにぎやかだったね。いつ出るかわかんないってアバウトだな。まあいいやと待ってたら、10分ほどで出発しました。バスターミナルを出てわりとすぐに川の方に出たんだけど、ここでもマラソンのせいで足止めを。通り過ぎるまで待たないといけないみたいなんだけど、バスの運転手さんがマラソンの警備をしているおじさんにガンガン文句入ってるよ。こわいよー。なんだか運転もあらいしなー。その後、やっと動き出したら、飛ばす飛ばす。このペースで走って1時間半でつくんだね、きっと。途中寝てて、起きたらもうプサンみたい。バスの運転はあいからずあらいなー。ぼちぼち降り始めてる人もいて、ガイドさんが降りましょうって言ったので、どこかよくわからないけど、降りました。そこからタクシーで中央洞まで行って、「多島海」というお店に荷物を預けて、日本に帰る前にここでごはんを食べることに。身軽になったので、今度は昼間の南浦洞に遊びに行きます。ほんとはプサンに戻ってきたら陸さんの仕事は終了だったんだけど、夕方まで付き合いますよーってことで、一緒にまわってくれることに。